門真市の原点は「大和田」「四宮」「二島」の“3村合併”に始まる

1965(昭和31)年8月の「合併申請書」に描かれた1町3村の区域図(「門真市史・第6巻 近現代本文編」より)
古川橋駅

昭和30年代の初めまで大和田四宮二島(三ツ島・稗島)も独立した「村」でした。現在の門真市の基礎が形作られたのは今から60年以上前、1956(昭和31)年に当時の「門真町」が3つの村を合併し、“大門真町”を発足させたことが原点といえます。

門真の色んな場所で地面を掘りおこすと、考古学的にも重要な銅鐸(どうたく)やら土器やらがよく出てくるように、門真周辺には縄文時代にはすでに人が住み始めていたと言われています。

平安時代の終り頃には、今の門真市域で島頭や馬伏、大和田、岸和田、普賢寺(ふげんじ=門真一中跡付近で遺跡発掘が行われているが正確な場所は不明)、稗島などの地名もみられるようになります。

そうした長い歴史のなかで、行政区分という面で見ると、現在の門真市を形作る基礎となった象徴的な出来事は、1956(昭和31)年9月に当時の「門真町」と「大和田村」「四宮村」「二島村」の1町3村の合併によって“大門真町”と呼ばれる新たな門真町が発足したことでした。

1889(明治22)年の市制町村制によって現在の門真市域には4つの村が誕生し、門真村は1939(昭和14)年4月から「町」に昇格した(「門真市史・第1巻 地理編・古代文献編」より)

それほど“大昔”でもない戦後に、狭い門真市のなかで4つの自治体に分かれていたこと自体に驚かされますが、この1町3村の合併によって、門真は高度経済成長の恩恵を受け、市に“昇格”して昭和の繁栄を築いていきます。

合併前の1町3村とは、一体どんな自治体だったのでしょうか。以下に概要をまとめてみました。

北河内郡「門真町」

  • 当時の町の範囲MAP
  • 1956(昭和31)年の人口:11,173人
  • 1956(昭和31)年の町職員数:110人(このうち教員:59人/診療所:20人)

<当時の集落>

  • 二番・古川橋・三番・四番(門真)・一番・桑才

<当時の主な施設>

  • 門真小学校(1872年~)
  • 京阪門真駅(1910年~、後に西三荘駅)
  • 京阪古川橋駅(1910年~)
  • 大同電力大阪変電所(古川橋変電所、1922年~)
  • 松下電器産業・本社工場(1933年~)
  • 町立門真中学校(1948年~)
  • 府営古川橋住宅(1954年~)
  • (※新門真駅:1971年~、後の門真市駅)

北河内郡「大和田村」

  • 当時の村の範囲MAP
  • 1956(昭和31)年の人口:3,509人
  • 1956(昭和31)年の村職員数:45人(このうち学校:28人/診療所:4人)

<当時の集落>

  • 常称寺・野口・横地・打越・北島

<当時の主な施設>

  • 大和田小学校(1872年~)
  • 京阪大和田駅(1932年~)
  • 天辻鋼球工場(1939年~)
  • 井澤鉄砲製造所(1940年~戦後閉鎖、東洋社「日の本トラクター」に)
  • 学校組合(大和田村・二島村)立「二和中学校」(1948年~)

北河内郡「四宮村」

  • 当時の村の範囲MAP
  • 1956(昭和31)年の人口:4,925人
  • 1956(昭和31)年の村職員数:49人(このうち学校:29人/診療所:8人)

<当時の集落>

  • 上島頭・上馬伏・下島頭・巣本・下馬伏・岸和田

<当時の主な施設>

  • 四宮小学校(1874年~)
  • 京阪萱島駅(1910年~)※寝屋川村域、一部が四宮村域
  • 四宮村立中学校(1948年~)
  • 府営四宮団地(現上島町、1955年~)
  • 府営四宮南団地(岸和田、1956年~)
  • 弁天池(岸和田)
  • (※門真団地:1966年~)

北河内郡「二島村」

  • 当時の村の範囲MAP
  • 1956(昭和31)年の人口:2,232人
  • 1956(昭和31)年の村職員数:24人(このうち学校:14人)

<当時の集落>

  • 三ツ島・稗島

<当時の主な施設>

  • 二島小学校(1875年~)
  • 府道深野大阪線・三島大橋(1937年~)
  • 学校組合(大和田村・二島村)立「二和中学校」(1948年~)
  • (※門真南駅:1997年~)
  • (※なみはやドーム:1997年~)

以上が合併前に存在した1町3村の概要です。

今の市域で言えば、「門真町」は古川橋駅から西三荘駅、桑才まで、「大和田村」は大和田駅から北島までの一帯、「四宮村」は萱島駅から門真団地、大東市との境まで、「二島村」は門真南駅付近の三ツ島と稗島といった範囲になります。

門真市役所に置かれている史跡一覧の案内板、史蹟は市内にまんべんなくある

現在の「門真市」で見ても、門真町は市域の4割弱の広さを持ち、当時から人口も半分以上を占めており、市役所は現在までここに置かれ続けています。今も昔も中心地です。

大和田村は、京阪の大和田駅が置かれたのが門真や古川橋、萱島より20年ほど遅かったのですが、駅新設から間もなく駅近くで田畑を整地し、工場誘致(天辻鋼球と井澤鉄砲=その後に日の本トラクター)に成功しています。

四宮村は、広さ(現市域の約3割)も人口(当時5000人弱)も門真町に次ぐ規模でしたが、この頃はまだ門真団地も国道163号線もなく、一面に田畑が広がるのどかな農村でした。村内に4つの神社(宮)があったことが村名の由来です。

「二島」という村の名は今も小学校名としてとどめている(三ツ島1丁目の二島小学校)

一方、面積・人口ともに最小だった二島村は、「三ツ」と「稗」の“2つの島”から取った村名ですが、今では小学校にその名を残すのみで、三ツ島という地名が現在まで有名なせいか、間違えてしまいそう。平成前期に門真南駅ができるころまでは、農村風景を維持していました。

「庭窪町」が門真に合流していれば

そんな1町3村が合併して「門真町」が発足したのですが、二島村あたりから見ると、完全な「吸収合併」のように感じていたといいます。

そして当時、合併対象として協議を続けていた「庭窪町」(現在の藤田や大久保、大日など、現守口市)は、同規模の門真町と主導権争いを嫌ったためか、守口のほうへ合流してしまいました。

1954(昭和29)年7月の「門真町広報」に掲載された地図、当初は守口市・門真町・庭窪町・大和田村・四宮村・二島村での合併が企図されていたが上手く進まなかった。1市2町3村の合併には門真町が反対し、一方の庭窪町は門真町に主導権を握られたくない思いがあったという(「門真市史・第6巻 近現代本文編」より)

京阪沿線に近く、門真と一部で生活圏が似ている庭窪町も合流していれば、その後の門真市の歴史は大きく変わっていたようにも思えます。

庭窪町は門真町と同じような規模を持っていただけに、現代の守口と門真、あるいは松下電器と三洋電機のように、近すぎたうえに似すぎていて付き合いづらい面があったのでしょうか。

赤い線内が庭窪町だったエリア、もし門真と合併していれば北河内でかなりの力を持った市になっていたはず(歴史的行政区域データセットβ版/Geoshapeリポジトリより)

四宮や大和田、二島の3村は、規模や生活圏から言って、選択の余地は多くなく、門真町に合流するしかなかったといえます。四宮村に寝屋川や大東側から合流の強いラブコールがあったわけでもなさそうですし、二島村が単独で大阪市(鶴見区)へ合流することも難しかったのでしょう。門真町に隣接する大和田村は合併にもっとも支障が少なかったといわれています。

その後、1町3村の合流で勢力を拡大した“大門真町”は、人口急増で市に昇格し、松下電器の好調や松下幸之助さんの一時門真移住による税収増などで「門真の黄金時代」とも言える勢いを見せます。

ただ、あまりに人口増加のスピードが速すぎて行政の対応が追い付かず、現在のように狭くて密集した住宅街という負の遺産を残してしまうことにもなり、ものづくり産業を中心とした構造変化にも翻弄され続けます。

1994(平成6)年4月から“四宮村域”の島頭4丁目には市役所出先機関の「南部市民センター」も設けられているが……

そして、市の発展という面で見ると、やはり旧「門真町」の側に偏っていると見えてしまうのは、“四宮村域”で生まれ育った元住民のうがった見方でしょうか……。

門真はかつて1町3村という範囲に分かれていたという原点を思い起こしながら、今後も門真の歴史を振り返っていければと思います。

(2022年7月15日時点の内容です)

)本稿は「門真市史」と「歴史的行政区域データセットβ版/Geoshapeリポジトリ」を大いに参照しました