この四半世紀の門真でもっとも衝撃的だった出来事といえば、1997(平成9)年に「大阪モノレール」が門真市駅まで、地下鉄「長堀鶴見緑地線」が門真南駅へ相次いで延伸開業したことではなかったでしょうか。
その後に開通した「第二京阪道路」を含めて、大阪府や門真市などの沿線自治体が国を巻き込みながら、超大型の交通インフラプロジェクトとして実現にこぎつけたものでした。
四半世紀にわたって門真を離れている身からすると、大阪モノレールと地下鉄の門真南駅は、個人的には未だに良い意味で違和感がぬぐえない存在です。第二京阪道路にいたっては、幻ではないかと今も信じられない気持ちで眺めてしまいます。
そうした個人的な感情もあり、なぜ大阪モノレールの門真市延伸と地下鉄の門真南駅開業という、自治体の規模からして門真には不相応ともいえる巨大プロジェクトが実現したのだろうか、という疑問が今さらながら湧いてきました。
大阪府が深く関与する大阪モノレールはともかく、「大阪市交通局」(現「大阪メトロ(Osaka Metro)」)が地下鉄をわざわざ「市外」である門真に乗り入れているわけです。
当時の市交通局はすでに谷町線が守口市(大日駅)や八尾市(八尾南駅)へも乗り入れていましたが、これは車両基地(車庫)を建設するという目的があり、門真南は大阪市営地下鉄にとってメリットが大きいようには見えませんでした。
田畑広がる地に「なみはやドーム」
門真にモノレールや地下鉄が乗り入れた理由としては、「1997年に『なみはや国体』があったから」というのが定説であり、これは間違いではありません。
ではなぜ、国体のメイン会場である「なみはやドーム(府立門真スポーツセンター)」(現在は「東和薬品RACTABドーム」の名称)は門真の田んぼのなかに突如建てられることになったのでしょうか。
このヒントとなるような発言を1985(昭和60)年から2005(平成17)年まで門真市長をつとめていた東潤(あずまじゅん)さん(2017年他界)が残していました。一部を以下に紹介します。
場所は門真にちょうど運動場がありましたし、多目的の広いやつが、あそこへ引っ張ってきやすい。あれ引っ張ってきたら、地下鉄もモノレールも一緒に来れるのではないかと。
(中略)あくあかん別にして、これやってみよかなと思いましたね。これにほとんど没頭しましたね。(2006年「門真市史」第6巻)
どうやら、大阪府教育委員会は昭和の終わりごろから、近い将来の国体開催も視野に府内のどこかに「大型屋内プール」の新設を考えていたものとみられます。
当時の門真市長とすれば、これを門真に誘致できれば、同時に近い将来はモノレールも地下鉄もやってくるはず――との考えから熱心に誘致活動を行った、ということのようです。
誘致活動が始まっていた昭和後期から平成初期のころは、まだバブル経済が続いていましたし、府にも門真にも勢いがあったのでしょう。
“門真の南北問題”解決の契機に
加えて、熱心な誘致活動を展開した背景には門真市ならではの課題もありました。
門真は京阪電車の沿線を中心とした市の「北部」が発展する一方で、三ツ島などの「南部」は昔のままで残っている“門真の南北問題”とも言われる地域格差です。
ハスやレンコンといった畑が広がっている風景は門真の伝統を残し続けている重要な存在なので、そのままでもいいのではないかと個人的には思うのですが、当時の東市長としては、三ツ島の外れに大型屋内プール(なみはやドーム)を誘致できれは、門真の南北格差を解決できる大きな契機となりうるとして懸命に活動したことがうかがえます。
当時の建設予定地は田畑のほかに何もないような場所でしたが、至近には自動車交通の大動脈「大阪中央環状線(府道2号)」が通っていました。
また、近くの鶴見緑地では「花博(国際花と緑の博覧会)」(1990年4月~9月)がバブル景気を彩る一大イベントとして盛り上がりを見せていたことも誘致に好影響を与えたことでしょう。
その直後からバブル経済は崩壊していくことになるのですが、多くの人がそんな兆候には気付きませんでしたし、構想から計画、実施となるまでには相応の年数が掛かるものです。
あの花博会場から3キロも離れていない場所への大型施設誘致ですから、“花博レガシー(遺産)”ともいえますし、「花博のような盛り上がりを国体でも再び」という思いになっても不思議ではなかったのでしょう。
花博開催を機に地下鉄「鶴見緑地線」(現「長堀鶴見緑地線」)は京橋駅から鶴見緑地駅までの区間が開業し、世界初のリニアモーターカー地下鉄などとして大きな話題になっていましたので、3キロほど先の門真南までの延伸もそれほど難しいことではなかったともいえます。
必ずモノレールは門真にやってくる
一方、門真市への誘致が叶った大阪モノレールは、1970(昭和45)年の「大阪万博(日本万国博覧会)」時に“中央環状線鉄道”が提唱されたことが契機となり、後に具体化した交通機関でした。
大阪では中心部から郊外部へ放射状に延びる鉄道路線ばかりしかないため、府の郊外部をぐるりと結ぶ役割を担う目的で、まずは1982(昭和57)年に南茨木駅(茨木市)~千里中央駅(豊中市)間で建設が始まり、1990(平成2)年に同区間が先行開業しています。
結果として、1997(平成9)年の「なみはや国体」開催時には門真市駅までの延伸にとどまりましたが、「大阪中央環状線(府道2号)」に沿ってつくられている以上、いつか門真南(三ツ島)付近までやってくるのも必然でした。
その考え方が正しかったことは、近年になって「門真市~瓜生堂(うりゅうどう=東大阪市)延伸計画」という形で具体化していることが証明しています。
鶴見区が反発、大阪市にメリットは?
門真南という場所は「近未来の交通の要衝」に成長するであろうという期待に加え、メイン会場として国体開催という大型イベントが起爆剤として加わることになります。
しかし、当時は何もなかったような“大阪市外”へ地下鉄を伸ばすことに対しては、鶴見区民から疑問の声も上がりました。
そもそも長堀鶴見緑地線は、府道「大阪生駒線(鶴見通・阪奈道路)」に沿ってつくられていますが、横堤駅に至ると急に北へ向かってカーブし、鶴見緑地駅へ到達するルートを採用しています。
横堤から真っすぐ伸ばせば、その先には人口の多い鶴見区の安田や茨田大宮といった地域があるのにです。
鶴見緑地側へ線路を曲げられたのは「花博」という国家プロジェクトのためであり、なおかつ鶴見区内が会場となっていたからあきらめざるを得なかったのでしょうが、続いて市外である門真市への延伸の話まで出てきました。
「次は門真南やて、あんな人の住んでないところへ伸ばして駅作ってどうするんや?地下鉄は大阪市民のために走ってるんとちゃうんか!」といった趣旨の声も上がっていたようです。
花博に続き「国体」と一過性の大型イベントのせいで、また地下鉄が鶴見区民の居住エリアから離れていくのか――。
そんな地元の落胆を受け、大阪市の議会(大阪市会)で市の姿勢を問い質した議員に対し、大阪市交通局の担当者は次のように理解を求めています。
この路線は、京阪線と片町線のちょうど中間付近を通るという、放射状のちょうど中間を通っていくというのが理想的な路線でございまして、当時もこれが議論になったわけでございますが、横堤から真っすぐ東に参りますと極めて片町線に近接する、こういうふうなことにもなりまして、できれば真ん中を通っていくと。
ちょうどここに第2京阪道路というメーンの京都まで行く幹線道路という計画もございまして、そこがちょうど中間点になります。
先々は、答申では、交野方面まで第2京阪道路に沿って延伸というふうなことも答申されておりますので、公益的な機能を果たす鉄道といたしまして、やはり今の鶴見緑地駅から第2京阪道路に入りまして、それから門真南まで、ここは私ども大阪市交通局で何とか整備したいと考えておりますが、その後につきましては、また事業主体と議論があろうかと思います。
いずれ交野方面まで第2京阪道路に沿って延伸されるというふうに考えております。
(1992年10月7日、大阪市会「決算特別委員会(公営)」で大阪市交通局担当者の答弁)
広域的な計画が存在する以上こうするしかないのだ、とはっきり言えばいいと思うのですが、このあたりは大阪市交通局の幹部としては言いづらい面もあるのでしょう。
大阪府と市は、かつて独立しようとした大阪市に対し、府がそれを妨害したとされる経緯もあって昔から仲が悪かったと言われていますが、公益的かつ広域的な計画実現のためとなれば、市外でもそれを優先せざるを得ない行政上の立場が大阪市の姿勢に垣間見えます。
大阪市当局による発言も含め、説明を補ってまとめてみると、鶴見緑地線を門真南へ延伸するのは次のような理由からでした。
- 門真南は近い将来に交通の要衝となり、なみはやドームは「なみはや国体」のメイン会場になる
- 地下鉄鶴見緑地線(7号線)は、京阪電車やJR片町線(現「学研都市線」)とかぶらない(客を奪い合わない)ように、その中間を走るのが理想である
- その中間点となる場所が将来、「第二京阪道路」が計画されているルートであり、第二京阪は門真南駅付近で中央環状線と合流する
- 鶴見緑地線が門真南から先、交野市方面へも延伸するという将来構想が1989(平成元)年に国の「運輸政策審議会」が出した答申(鶴町・茨田線)に盛り込まれている
- 交野方面へ延伸する際は、第二京阪沿いに伸ばすことになるので、門真南駅への延伸は間違いではない(ただし、延伸する時は大阪市交通局が事業主体になるかどうかは分からない)
市外である門真南への延伸に積極的な理由があまり見えない大阪市による説明なので、逆に信憑性が増すのではないでしょうか。
こうした答弁が行われた1992(平成4)年ごろは、バブル経済の崩壊が始まりつつあったとはいえ、世の中はそうした雰囲気にはなっていませんでしたし、ある意味で大阪市にも少しは“余裕”があったともいえます。
そんな時代背景も後押しして、門真に初めての地下鉄誘致が叶ったわけですが、それから四半世紀が経った現在、“門真の南北問題”は解決に向かっているのかどうかは、私には分かりません。
また、この先2029(令和11)年には当初の思惑通り、門真南駅を通って東大阪市まで大阪モノレールも伸びてくる計画となっています。
そして、もはや多くの人が記憶の底に消えかかっている「長堀鶴見緑地線」の交野市方面への延伸構想は、いつか実現することがあるのでしょうか。
このあたり、少しずつ調べて、ここで取り上げていければと思います。
(2022年6月24日時点の内容です)