今年2023(令和5)年は門真の街が「市」になってから60年の節目を迎えます。
かつて大阪府で一番裕福だと言われた「門真町」が「門真市」へと変わり、人口も格段に増えたのに坂道を下るようになってしまったのはなぜなのか。
栄光から転落へと傾きつつあった時代に門真を率い、現在につながる街の基礎を築いた一人の政治家に注目しながら、60年前の状況を振り返ってみました。
門真が「町」から「市」に変わったのは、今から60年ほど前の1963(昭和38)年8月1日。東海道新幹線が開業し、東京オリンピックが行われる1年前のことです。
当時の「門真町」は、1956(昭和31)年に「大和田村」「四宮村」「二島村(三ツ島・稗島)」の3村を吸収するかのような形で合併。
区域が狭かった合併前の“小門真”を脱し、“大門真町”と呼ばれる今の市域(範囲)がすでに形作られていました。市になる7年前のことです。
いわば今の門真市の形は1956(昭和31)年に生まれ、その7年後には「町」から「市」に“昇格”したということになります。
当時の門真がどんな街だったのかは、市制1周年を記念してつくられた「門真市歌」の歌詞からも一端をうかがうことができます。
世界に通う わが市(まち)門真 立市の産業 われらは勢う 生産文化の世紀の都(2番)
無限の発展 われらはめざす 永遠飛躍の希望の都 おお 門真 おお 大門真(3番)
つくられてから60年ほど経った現在から見ると、まるで“異世界のような門真”の姿が盛り込まれており、「宇宙をひらく わが市(まち)門真」などという歌詞にも驚かされます。
門真市歌は、当時の市長が懇意にしていた縁で、奈良県生まれの詩人・安西冬衛(あんざいふゆえ、1898年~1965年)さんが作詞を担当。
詩人ゆえに高すぎる格調となってしまった面はあるのでしょうが、当時の門真は実際に勢いがあり、繁栄をもたらしていたからこそ、このように力強い未来を感じさせる歌詞が生まれたともいえます。
たとえば、1958(昭和33)年度の門真は大阪府で一番の財政黒字を記録しており、「門真町はお金持ち」などと新聞に報じられたほど裕福な街でした。
そのころ、門真町の歳入(収入)の4割は松下電器産業(現パナソニック)関係のものだったと言われており、門真が「市」になってからすぐに創業者・松下幸之助さんを第1号の「門真市名誉市民」に推していることからも、その重要性がわかります。
「中塚荘」の“中塚さん”が初代市長
門真が「市」として60年の歴史を歩んできたなかで、「名誉市民」に選ばれたのは現在までに2人しかおらず、松下幸之助に続いて推されたのが中塚種夫(たねお)さんでした。
著名経営者である松下幸之助と比べてしまうと知名度は高くないのですが、月出町にある交流施設「中塚荘」の“中塚さん”と言えば、門真市民は腑に落ちるかもしれません。
中塚元市長の子息である中塚昌胤(まさたね)さん(元NHK副会長、1995年没)が没後に敷地を寄付して設けられた市民施設の名として、今も門真では“中塚”という苗字は頭のどこかに刻まれているはずです。
松下幸之助が松下電器本社の立地と自身の一時居住をも通じて経済面から門真を支えた人物ならば、中塚種夫は政治面で今の門真市の基礎をつくった人物といえるでしょう。
中塚は大和田村や四宮村、二島村が合流して生まれた“大門真町”で最初に選ばれた門真町長で、門真市となってからも初代の市長をつとめ、1957(昭和32)年から1973(昭和48)年に76歳で引退するまで16年間にわたって門真を率いてきました。
門真がもっとも裕福だった昭和30年代前半から、人口急増をきっかけに市の財政が悪化する昭和40年代後半まで、よかった時代から転落するまでのかじ取りを担ってきた門真の歴史上で重要な政治家です。
中央政界を諦め“大門真”の町長に
門真の政治家といえば、外交官としての優れた手腕から、戦後すぐの1945(昭和20)年10月には内閣総理大臣にまで上りつめることになった幣原(しではら)喜重郎(きじゅうろう)さんがもっとも知られ、日本の歴史教科書にも登場するほどです。
ただ、幣原と門真の深い関わりは幼少期の明治前期に願得寺(がんとくじ=御堂町)の“小学校”で学んだ頃までが主で、東京帝国大学(東京大学)へ進学したのをきっかけに活躍の場は中央政界や海外へと広がり、本人が門真の政治や行政に直接関わった形跡は見られません。
一方、中塚種夫は生まれ育った門真を拠点として大阪府議などをつとめたのち、戦前の40歳時に上京。
農林大臣の秘書官をつとめるなど中央政界に足場を築こうとしましたが、戦争の混乱もあって断念し、最終的には門真で政治を担うことになっています。
空襲で東京の家を焼け出された中塚は1946(昭和21)年、当時の総理大臣で同郷だった幣原のすすめもあって大阪二区(当時)から戦後初の衆議院選挙に打って出るのですが、これに落選。
1947(昭和22)年2月には故郷の門真で町長をつとめることになったものの、今度は占領軍から戦争に関わったと決めつけられて「公職追放」の制裁を受け、わずか2カ月で町長の座を降りることになってしまいます。
門真村二番(現月出町)で何代も続く旧家出身の中塚は、かつて大正期の門真村でも27歳にして助役をつとめ、1930(昭和5)年1月には門真村長に就いていたこともありました。
しかし、最初に村長となった際も在任中に村役場が火災で全焼するという災難に見舞われ、責任を取ってわずか9カ月ほどで辞任。戦前戦後の二度にわたってトップの座を短期で終えることになっています。
ちなみに中塚は、公職追放が明けた後の1952(昭和27)年10月の衆議院選挙で大阪三区(当時)に出馬した際も落選しており、この時は選挙違反容疑で取り調べまで受け、次の選挙では党の方針で出馬を断念させられたといいます。
戦後の中塚は何かと不運が続いていたのですが、再起への転機となったのが1957(昭和32)年に行われた“大門真町”の町長選挙でした。門真の有志から薦めを受けて立候補したといいます。
当時まで2期8年にわたって町長をつとめ“酒好きのおもしろい”庶民的な人物だったと評される現職の辻本仁市さんを465票の僅差で破り、自身としては三度目となる門真のトップに返り咲き、中塚体制による新たな門真が始まりました。
門真に市制を、元総理にも直談判
昭和30年代前半は、市町村合併で合理化を目指す“昭和の大合併”が全国で活発になっていた時代。大和田や四宮、二島を加えた“大門真町”もそうしたなかで誕生したものでした。
次は大阪市への合流模索や、守口市、寝屋川市、大東市、門真町、四条畷町、枚方市、交野町を交えた“北河内広域合併”といった議論も進んでいましたが、門真ではそれよりも先に解決しなければならない問題を足元に抱えていました。
それが人口急増で、当初は2万1839人でスタートした“大門真町”は、4年後の1960(昭和35)年10月の国勢調査時には3万4228人と1万2000人超が増加しており、その後も1日当たり平均30人ずつ人口が増え続けるような状況。
次の1965(昭和40)年に行われる国勢調査では9万人を超えると予測されるほどに人口が激増していました。
1962(昭和37)年7月に町の独自調査で人口が5万人を突破したことを機に、町から「市」に“昇格”することを目指すようになります。市になったほうが権限が多くなるためだと言われています。
当時、日本国内の自治体は人口が5万人を超えれば「町」から「市」になれるという基準はありましたが、その判定基準は5年に1回の国勢調査の結果を待たなければならないとされていました。
毎日何十人も新住民が町に流入してくるなかで、3年後に行われる国勢調査を待っていては手遅れになる、何とかせよ、と大阪府や国に強く迫ったのが中塚町長でした。
もともと中央政界を目指して戦前から人脈を築いていた中塚町長。自ら国会へ乗り込んで有力議員に次々と接触して“特例”を認めるよう強く働きかけるとともに、実力者の岸信介元首相にも直接会って、特例は認められるとの見解も引き出したといいます。
そうした積極的な行動に加え、門真と同じように人口急増で「市」の基準に達することが確実視されていた東京都郊外の多摩地域にある保谷(ほうや)町(現・西東京市)や東村山町(現・東村山市)、日野町(現・日野市)などに呼びかけて広域に連携。
門真だけでなく、首都圏の複数自治体が共同で呼びかけることで国に広域的な課題として認識させ、特例による市制施行への道を切り拓いていきました。
門真プラザ建設でも国を巻き込む
中塚町長の卓越した行動力もあって門真町は、1963(昭和38)年8月1日に「門真市」になることが国に認められ、晴れて「市」として高度成長期の歩みを始めます。
一方、中塚が次に目立つ大きな活躍を見せたのは、市制から10年後の1973(昭和48)年に完成した門真市(旧「新門真」)駅前の「門真プラザ」を中心とした再開発時でした。
この時も国や民間企業を巻き込んで門真市の負担を極端に減らす斬新な仕組みを創り出し、「門真方式」として国から表彰も受けています。
一方、門真プラザの再開発時に市の金銭的な負担を徹底的に減らさなければならなかったように、門真市は1971(昭和46)年度に初の財政赤字に転落するなど、急激な人口増に対応できず、財政面などさまざまな課題が噴出していました。
門真の名望家で中央政界にも幅広い人脈を持つ「出自からも政治歴としても飛び抜けた存在」(門真市史第6巻)と評される中塚であっても、毎年激変する高度経済成長期の門真を率い、門真町の頃のように裕福な街に立て直すことは困難であったようです。
門真が財政危機におちいるなか、中塚は1973(昭和48)年7月に行われた市長選挙には立候補せず、実質的には“二代目”といえる中田三次郎市長(50歳)に門真の課題解決を託すことになります。
この当時、日本社会党(現社会民主党)や日本共産党といった“革新”と呼ばれる政党が推す候補者がトップに立つ「革新市政」が全国で流行。門真の新たなトップとなった中田市長も松下電器の出身で、同社労働組合が深くかかわっていたと言われる社会党の前市議でした。
保守系の政治家として歩んできた中塚は、市役所内に職員の労働組合が結成されたことや、門真プラザの再開発時に地元商店街などから激しい反対運動を展開されたことに嫌気が差したことも一因で、市長を退いたとも言われています。
そうした背景はあったにせよ、1897(明治30)年8月に生まれ、当時76歳だった中塚には、“革新”がもてはやされる新たな潮流に立ち向かっていくだけの気力が湧いてこなかったのかもしれません。
門真市制60周年を迎える今年は、芸術関連の催しや祭りなどさまざまなイベントが企画されています。そのうえで、市の原点といえる中塚時代を振り返り、なぜ今の門真になったのかを議論していくような機会として欲しいと思います。門真だけの問題ではなく、高度経済成長期における日本の地方自治体に及ぼした大きな影響を考えるうえでも重要なはずです。
(2023年1月3日時点の内容です)
(※)本稿は「門真市史」を大いに参照し、門真市公式サイト内の各種資料も参照しました