かつての“村”ごとに4つの小学校しかなかった門真で、一番最初に“新・門真町”が新設したのが泉町の「北小学校」でした。
高度経済成長期に人口が急増し、学校新設に追われ続けることになった門真市の象徴的といえる小学校が2012(平成24)年に廃校となってから10年、跡地活用がようやく次の段階に移りつつあります。
門真市が今の形(市域)になったのは、当時の「門真町」が大和田村、四宮村、二島村(三ツ島・稗島)を“吸収”した1956(昭和31)年からでした。
当時は門真町の「門真小学校」と、合流した3つの村に1つずつの小学校(大和田、四宮、二島)があっただけでしたが、“新生門真町”が最初につくることになった門真町立の学校が「北小学校」です。
1960年初頭の門真は、「1時間に1人の割合で増える」というほどのすさましい人口急増期に入っており、1961年10月時点で門真小の児童数はなんと2133人(当時の新聞報道)。
毎月40~50人の割合で児童が増え続けるような状況が続き、“第二門真小”という位置付けで1962(昭和37)年4月に北小学校を開校しました。
最初の年は門真小に併設する形で設けられ、翌1963(昭和38)年4月になって泉町の現在地に校舎が完成し、863人の児童数でスタートしています。
高度経済成長の波に乗って門真の人口が膨張し、1970年代まで市内各所で学校不足に悩まされ続けるのですが、その端緒として象徴的といえるのが北小学校でした。
最初で最後の新設「町立小学校」
門真の高度経済成長とともに登場した北小学校でしたが、1990年代後半から始まった人口減とともに児童数が減り、2000年代に入ると小規模化が加速していきます。
1963(昭和38)年に建てられた校舎の老朽化も進みましたが、北小学校は泉町の住宅密集地に位置しているため、大規模な建て替えがしづらいという事情もありました。
そのため、「浜町中央小学校」(浜町小学校+中央小学校が統合=校舎は旧浜町小、現「門真みらい小学校」)に合流させられることになり、2012(平成24)年3月をもって北小学校は廃校となってしまいます。
“旧・村立小学校”で100年以上の歴史を持つ4校(門真・大和田・四宮・二島の4小学校)に比べれば新しいとはいえ、それでも門真の小学校では5番目に古く、門真の戦後を代表する存在として、廃校時点で半世紀の歴史がありました。
また、門真町時代につくられた「町立小学校」としては最初で最後の存在です(それ以前は門真村立、以降は門真市立)。
10年残された廃校跡地の行方
そんな北小学校ですが、特徴的なのは廃校後もほぼそのまま校舎や運動場が残されていることで、10年経った今も時が止まったかのように、以前の場所に校舎が建っています。
運動場や体育館(2019年3月に活用中止)は地域住民のスポーツの場などとして開放されていましたが、これは暫定的なもので、跡地活用のあり方は未だ正式には決まっていません。
校舎内に工事用の大型車両が入ることが難しいという理由もあるのでしょうが、門真市にはこの北小学校の跡地をきっかけに、周辺の再開発をもくろんでいるためとも言われています。
北小学校の至近には、中央環状線沿いに市の水道局も本部を置く「泉町浄水場」が位置しており、2つの市有地を合わせれば泉町内の半分くらいを占める広さがあります。
泉町浄水場もまた老朽化していて大がかりな設備の更新が必要とされており、市には北小学校の跡地と合わせ、この機に周辺の再整備ができないか、といった考えがあるものとみられます。
加えて、北小学校の付近にはかつて市が運営していた旧公立保育園(現在は民間保育園)や、私立の幼稚園もあり、再開発によってこれら老朽化した施設の建て替えも見込まれます。
実は市が“大地主”だった泉町
門真には、泉町のように道路が狭く住宅が密集している状態を解消しなければならないエリアは多数ありますが、土地の所有者が細分化していて再開発が困難なところが目立ちます。
泉町では“大家”の多くが門真市ということもあり、再開発に踏み出しやすいのではないかとみられています。
市は2014年ごろから周辺の在住者を対象にアンケート調査を行うなどして、水面下で段階的に再開発への機運を高めようとの動きも見せてきました。
そして、先月2022年7月30日には参加者を広く公募する形で「未来づくりワークショップ」と題し、北小学校の跡地活用に向けた話し合いも始めており、来年1月21日まで4回の会議に加え、11月19日(土)にはワークショップで出た意見をもとに活用実験も行うとしています。
まずは“一大跡地”である小学校の活用をきっかけに再開発の議論を進展させたいようです。
泉町は工場跡の再開発によって一大商業エリアとなった守口市側の大日駅からも近いだけに、再開発に動き出せば市内外から注目を集める可能性はあるでしょう。
そして、今後も小学校の統廃合により門真市内で複数の「跡地」出現が見込まれるなかでは、「門真一中(門真第一中学校)」跡に続き、廃校跡を“タネ地”とする再開発事例が増えることになります。
小学校跡は門真の歴史の象徴
一方、古川橋駅から至近の門真一中跡(高層マンションなどの大型再開発)や、門真市駅や大日駅からのアクセスも悪くない北小学校跡では、“市街地再開発”という選択肢も見えてくるのでしょうが、今後統合が取りざたされる「砂子小学校」(三ツ島6丁目)や「北巣本小学校」(北巣本町)などではどうなのでしょうか。両校は駅からも一定の距離があり、人口増が期待されるようなエリアではありません。
高度経済成長期に人口急増で学校不足で苦労し、今度は人口減によって作りすぎた学校の廃止に苦心している門真市。こういう自治体は門真に限ったことではないのでしょうが、門真の場合はジェットコースターのように変化が大きく、時代に翻弄されている気がします。
大阪でも随一の“お金持ち自治体”などと言われて裕福だったのはほんの一時期だけで、その後はあまりに激しい人口急増への対応で疲弊し、それが一段落したと思ったら今度は人口減と高齢化という課題に直面しています。
その象徴といえる小学校の統合と跡地活用は、門真という街の未来を占っているように見えます。小学校統合をきっかけに門真の半世紀先を見据えたまちづくりを期待したいところです。
(2022年8月6日時点の内容です)
(※)本稿は「門真市史」と門真市公式サイトを参照しました